ヘンデルクランツ通信 No2


皆様方、ご無沙汰をしております。お久しぶりの(でも無いかな)川島でございます。
ついに45定OB/OG合同ステージに向けての練習が開始されました。

既にご承知の通り、今年の演奏曲目はバロックを代表する巨匠、ゲオルク・フリードリヒ・ヘンデルの代表作にして大作のオラトリオ「メサイア」からの抜粋です。
言うまでも無く宗教楽ですし、初演以来270年と言う星霜…なんて話を聞くと、何やら厳めしくて取っ付きにくいのでは無いか…なーんて心配をしてしまうかもしれませんが、そんな事はありません。まず始めにそのあたりについて少々書かせて頂きたいと思いますので、暫しお付き合いの程を。

ヘンデルは名前からしてドイツ人だと解ります。生まれは現在のドイツ連邦共和国のザクセン・アンハルト州、当時はブランデンブルク=プロイセンに属していたハレと言う街です。生まれた年は奇しくもヨハン・セバスチャン・バッハと同年の1685年。世界の音楽史に名を刻む二大巨匠が

同い年と言うのは驚きです。ところが歳は一緒でもその後の人生ではまるっきり違った道を歩むことになります。

バッハが当時の最先端であったイタリアのヴィヴァルディなどを詳細に研究しつつも、生涯ドイツから離れなかったのに対して、ヘンデルは自由ハンザ都市であるハンブルク(当時は外国)を皮切りにイタリア各地に滞在し、王侯貴族からの庇護を受けながらイタリア・オペラの手法を学び、自らのものに高めて行きました。その後、ハノーファー選帝侯のもとで短期間活躍した後(1710年頃)、当時、バブル景気に沸いていたロンドンに行き、最終的にイングランドに帰化したのです。

ですので、名前も英語風にジョージ・フレデリック・ハンデルと名乗りました。英語だと何となく間抜けに聴こえますよね。因みに前ローマ法王は日本で報道される際には「ヨハネ・パウロ2世」でしたが、米国のニュースでは「ジョン・ポール・セカンド」となります。ロック歌手みたいで有難味が無くなると言うか…。と言う事で(関係無いけど)、ここではドイツ語式のヘンデルを採用します。
で、良く聞く逸話ですが、ヘンデルはハノーファー選帝侯に仕えていながら勝手にロンドンに行ってしまって自分の主人に不義理を働いた。そして僅か4年後の1714年、ロンドンでのパトロンであったアン女王が急逝してしまい、その後を襲って他ならぬハノーファー選帝侯が英国王(正確にはウェールズとスコットランドを含むイングランド王、兼、アイルランド王)ジョージ1世としてロンドンに乗込んで来た。慌てたのはヘンデル。
「これはまずい!!!」
と言う事で、テムズ川で挙行された王室主催の舟遊びの際に「水上の音楽」を演奏してオベッカを使い(1717年)、一気に王との和解に漕ぎつけたと言う話し。
昔の音楽の教科書にも出ていた様に思うのですが、これは大嘘だそうです。実はヘンデルは外交官としての資質を買われており、ハノーファー選帝侯(もともと英国王位継承者だった)が自らロンドンに赴く前に、事前の情報収集活動等の命をヘンデルに与えてロンドンに赴任させたのでは無いかと言うのが現在の新説だそうです。

さて、そういう訳で活躍の場をロンドンに移したヘンデルは、次々に新作オペラを舞台に掛けます。当時、ロンドンでは既に株式会社組織が存在し、投機目的でオペラハウスの株が取り引きされたりしたようです。で、貴族階級の人間を組織の会長に据え、ヘンデルはもっぱら雇われ作曲家として作品を提供したのですが、紆余曲折あってヘンデル自らオペラ座の興行主となって取り仕切り始めたのです。つまりハイリスク・ハイリターンを狙ったと言う事なのでしょうが、これが裏目に出る。雇われ時代には次々にヒット作を打出したと言うのに、自ら興行主となってからは鳴かず飛ばず。これに加えて高額なギャラを要求するイタリア人歌手同士の軋轢に巻きこまれたりして、最後はスッテンテン…と言うほど酷くは無かったようですが、相当の経済的損失を被った事は間違いありません。
何でオペラが当たらなくなったのか?色々な原因が複雑に絡んでいたようで、例えば清教徒革命による社会的混乱等も考えられますが、重要ポイントは言葉の問題みたいです。当時のロンドンでは既に市民階級が台頭し始めていたので、彼等からの人気を得ないと興行的に調子が悪い。何てったって人数が圧倒的に多いのは市民階級ですからね。ところが彼等にとっては外国語であるイタリア語なんてウザい!他方、オペラはイタリア語と言うのが当時の常識でしたから、「坊主憎けりゃ…」式にオペラは当たらなくなったのではないか…。

そこでヘンデルはイタリア・オペラに平行する形で、英語によるオラトリオと言う作戦に打って出るのです。これなら市民階級からの賛同を得られると。もう一つ切実な理由として、衣装や舞台装置にカネのかかるオペラをもはや上演するだけの余裕が無くなったと言うこともあるでしょう。オラトリオならこれらの経済的負担は一気に軽くなりますからね。で、当初は手探り的に始めたオラトリオが結構行けるぞ!と言う事になったので、徐々にオペラは止めにして、オラトリオ一本に絞って行きます。そんな経緯で誕生したのが今回のオラトリオ「メサイア」です。市民階級も想定購買層に置いた「商品」ですので、何よりも解り易く魅力的でないとダメ。演奏する会場も教会とは限らない。実際、「メサイア」の初演(1742年4月13日)は劇場で行われました。(於:ダブリン、フィッシャンブル街ニュー・ミュージック・ホール)

さてさて漸く冒頭に書いた「何やら厳めしくて取っ付きにくいのでは無いか」とのコメントへの答えが出てきました。
「メサイア」は素晴らしい芸術作品であると同時に、誤解を恐れずに言えば、「一般大衆を狙った娯楽作品」としての性格も併せ持っていると言えるのです。それが簡潔かつ華麗なメロディー、壮大で劇的な表現、暗くなり過ぎない雰囲気の源泉であると感じます。この点がバッハと大きく異なるところでは無いかと(勿論、バッハの作品も非常に素晴らしい音楽ですよ)。

「メサイア」はヘンデル在世中から高い人気を勝ち取った作品でした。キリスト教の四旬節(復活祭前の46日間で年によって変わる。大体2月から4月の間)に行われたオラトリオ・シーズンの締め括りとしてほぼ毎年、孤児養育院での慈善演奏会で上演され、そのたびに多くの観客動員人数を得たとの記録が残ってます。最後は1759年4月6日。メサイアの演奏を終えたヘンデルは、帰宅後、そのまま病床に伏し、8日後の14日に無くなりました。当時としては長命の74歳でした。

「メサイア」はヘンデルの死後も忘れ去られる事無く、その後の古典派の時代、ロマン派の時代にも一貫して人気作品として上演され続けました。このあたりが、死後、長らく忘却の彼方に置かれ、漸く1829年にメンデルスゾーンによって甦演されたバッハの「マタイ受難曲」と異なる点です。もっとも、今日では「バッハ、ヘンデル」と並び称される二大巨匠ですが、在世中は月とスッポン。提灯に釣鐘。バッハはオルガニストとしては名声を誇ったようですが、作曲家としては地元のライプツィッヒで漸く知られる程度。そのライプツィッヒですら地元新聞の人気投票では1位2位を争うのはロンドンで活躍するヘンデルと、ハンブルク市音楽監督たるテレマンだったとか。全ヨーロッパに知られた彼等とバッハとでは全く違った立場だったようですので、その作品の扱いも自ずと差が有ったと言う事かも知れません。

話しは更に脱線しますが、テレマンを含むバロックの3大巨匠。生前はバッハが一番貧乏で可愛そうな人生だったようにも見えますが、結婚生活に関しては全くアベコベに思われます。まずヘンデルは一生涯独身(「独身」が不幸かどうかは解りませんが…)。テレマンは初めの妻には早世され、二番目の妻はスェーデンの軍人との不倫疑惑が取りざたされ、更には高収入だったテレマンの年収をも上回る金額をギャンブルで摩ったりして、結局、離婚。後半生は寂しい独身暮らしだったようです。これらに対してバッハは初めの妻にはやはり早世されるのですが、二番目の妻は有名なアンナ・マグダレーナ。自身、優秀なソプラノ歌手で(バッハによる記述あり)音楽にも造詣が深く、バッハの清書譜作成の手伝いをしながら、バッハを深く敬愛したとか。人生の成功とは良く解らんもんです。

さて、本当は第一回目の練習風景をお伝えしようと書き始めたのですが、ここまででかなりの文章量になってしまいました。ですので一旦終了とし、改めてのリポートをお伝えする事と致します。それではSee you soon!

 川島


[編集後記]
43定のメールは「リーデルクランツ通信」、44定は「続・リーデルクランツ通信」としてきましたが、45定のメールはタイトルを「ヘンデルクランツ通信」とします。
アンケートにてご意見を伺おうとも思いましたが、
「もうアンケートにはうんざり」という方達もいるかもしれませんので(笑)、勝手に
決めてしまいました。
(6月に配信しました「始動45定」をヘンデルクランツ No1としています)

TongSing